【ベース談義】 太い音の出し方を考える (16) 高めなければ高まらない

継続して高めてこそ

 

どんなにキャリアがあっても関係ない

 

例えば草野球とかで考えてみましょう。野球歴も30年、40年、50年とします。これと言った強いトレーニングも特にしない設定。

 

・何をやらせても一流

・打てばホームラン投げれば160km

・強く柔らかくフィジカル抜群

・怪我もしないパーフェクトなアスリート

 

まぁ、いるわけないですよね。現実的に考えて有り得ない。いたとしても例外中の例外の化け物。止まったままでいれば上達も成長もしない。どんなに長いキャリアがあったとしても、鍛えなければ衰えるもの。

 

楽しみも純粋さもない極論なようですが、一つの現実だと考えます。普通にただ生きてるだけでいつのまにか筋肉バッキバキ、体は柔軟、無尽蔵のスタミナも付いていたとか、そんなものを都合良く求めても無駄ですよね。

 

同じようにタッチも意識して鍛えなければ、意外とそのままになる可能性が高い。自分の話をするならば、10年弾いたって音は太くなりませんでした。意識して変えたからこそ、その後の10年で違うものになっていったと断言できます。他の人は知りませんが、自分はそうだったわけです。

 

ライブやセッション、現場で鍛えれられるとか、常に演奏漬けで成長していくのも当然な一方、それがやっつけになったり惰性的になると厄介。持ってるものでとりあえず何とかしようとする。楽を覚えて器用に無難にこなそうとする。こうなると鍛えられるどころか変な方向に弱くなる可能性だって考えられる。

 

このへんはあれですね。過酷な漫画連載を乗りきるために絵がどんどん荒れていったり、効率重視で記号化していくのと同じようなことかもしれません。器用さが鍛えられたり、仕事作業のスピードが上がる反面、失うものもあるのだと思います。

 

キャリアがあると逆に変な癖が付いてしまう可能性があるし、修正できなくなる可能性も高くなる。それが独自進化といくか、真のオリジナリティとなるかは分かりませんが、いずれにせよ、なかなかそう都合良くはいかないものだと痛感する次第。

 

変えようと思えば変わる 変えなければ変わらない

 

地道に地道に積み重ねることこそが力になると自分も信じています。それがあるからその人生とも言えるでしょう。

 

・特出した才能もルックスもなければ強さも根性もない

・頭も悪いし機転も利かない

・必死になれる馬鹿になれる思いきりの良さもない

 

ま~ほんと、現実って恐ろしいほどに残酷だなと。『ない』を考えるといくらでも出てきてしまいますね。弱点を見つけてネガティブになるのは自分の得意分野とすら言えます。

 

でもそんな人間でさえ『積み重ね』というものは実感できます。何かを変えようと思えば変わるもの。積み重ねていけば確実に力を得ることができる。そしてそれは『楽しいこと』だと手応えも感じられる。

 

不思議なものでその積み重ねたもの・楽しいこと。それを高めていくと他の部分にも影響を与えられたりもするから面白い。関係ないような点と点が繋がっていくんですよね。それはこのブログでも実はけっこう話していることだと思います。

 

変な話、音楽やってることで料理も上手くなりました。料理が上手くなると発想も豊かに柔軟になったりもします。楽しく美味しく節約もできて良いことづくめ。そうやって遊べることが増えていく。

 

一方、前述から繰り返すように、変えようとしなかったものは本当に変わらなかった実感もあるところ。元々が怠惰な性格ということもありますが、成長しない部分ってビックリするぐらいそのままなんだと驚いてしまいます。良くも悪くもな面があるにしても、駄目なものは駄目みたいです。潔く切り捨てるか、欠点を克服しようとするか、どういうやり方が合うかも人によって違うんでしょうね。

 

『太い音』というのは自分にとって必要なものだったから変えましたが、そんなに必要でない、興味のない人であればやはり、いくら長く続けても変わっていかないものなんだろうと想像。

 

細い音だったら細い音のままになってしまう。

 

鍛えること・高めること

 

 「鍛える!」と言うと、ついつい筋肉的な方向をイメージしてしまいますが、それも一つには視野が狭いのかもしれないと考えさせられるところ。

 

例えばの話、

 

「お前の癖は救いようがない!」

「一年間ベースも他の楽器も弾くな!」

「音楽も聴くな!耳をリセットしろ!」

「そんなチンケなもん個性じゃねぇ!」

「全部忘れちまえ!」

 

これを言われて実行するには恐ろしいほどの勇気が必要になりますよね。音楽が好きな人、ベースが好きな人、練習熱心な人、向上心のある人、そういった人であるほどとても受け入れられない、納得のできない提案でしょう。

 

もちろん、自分もこれは実践したことはありません。あまりに怖すぎるし、どうしていいか確実に分からなくなります。

 

しかし、これこそが本当に一番の正解、新たな自分、より高みを手に入れるための最善だったとしたらどうするか?上記の方法は極論にしても、『高める』ということを真に求めるのであれば、ただ無闇に鍛えるのではない可能性も多く考えられそうです。

 

一方、そうやって高めることばかりを意識、こじらせた結果、貧弱貧相になってどうにもならなくなってしまうこともあるから難しい。

 

 『脱力』

 

この言葉を聞くことも珍しくない世の中ですが、これも本当にわけが分からなくなりますね。やればやるほど迷いが生まれたり、何が正解なんだかカオスなことになっていきます。

 

個人的に考えるのはこれも前述の通り、貧弱貧相を目指すのは違うぞと感じる次第。ぼーっとだら~っとするのではなく、自分の体の隅々まで神経が行き渡っているような、無駄な消耗なく自由に使える状態が望ましいかなと。

 

それを実現するにはやはり、「高める!」と意識するだけでは机上の空論になりそうですよね。

 

『鍛える』

 

意識して己を強くしていかなければ、土台はグラグラなまま。そもそも高まるものが存在しないという、悲惨なことにもなりかねない。

 

絶対的完成形なんか知らない

 

ブログやってても本当に感じること。「あれもこれもいいんじゃねーか!やっぱ駄目なんじゃねーか!」と矛盾が平気で起きたり、整合性もなくなったり、正直、笑ってしまいます。

 

だからまぁ、「これが絶対!」という答えは自分はあんまり欲しくないかなと思っちゃいますね。絶対の自信があるって方が良いんだろうけど、それもそこまで欲しい気がしない。それってなんか面白くないような?

 

なんかこう、「もう極めた!」「俺は完成した!」「これ以上なんて存在しない!」みたいなのって退屈になっちゃいそうだなと。自分の考えてることを言語化してみたり、解説を試みたり、そういうのも面白いんですが、どうしたって限界があるしそこに縛られたくもない。

 

話が脱線してるようですが、要するにですね。

 

「なんでもいいじゃん」

 

こういうことですね。めちゃくちゃ無責任でテキトーな話ですが、大真面目な内容でもあります。

 

「道も答えも一つしかない!」みたいなのも格好良いんですけど、人が歩んでる道とか出した答えが自分に合ってるのか正しいのかなんて分かりません。「極める!」という言葉に憧れるのも凄くよく分かるんだけれども、自由を失い縛られる非常に危うい姿勢でもあると自分は感じる次第です。

 

悩んで結構、迷って結構、混乱して結構。太い音を出すにも一つの答えしかないということはありません。こんなブログやっててあれですが、言葉に縛られる必要もないと考えます。

 

前述の『高める』とも繋がりますが、クソ真面目な努力や苦労を過剰に美化するのも考えもの。多様性を拒絶するのも古いし、カチカチにお堅く構えすぎてはつまらない。

 

あれが正しい、間違ってるとか、 知ったこっちゃありません。

 

『楽しむ』

 

これが何より、これが一番ですね。

 

鍛えて高めて脱力して楽しみ遊びましょう。