多弦ベースを語る
5弦、6弦、多弦ベースへの偏見はさすがに古い
一昔前は5弦にすら強烈な偏見があったんじゃないかと思う多弦ベースの世界。実際、自分は十代の頃から5~6弦を弾いていましたが、
「ベースの音域広げたって役に立たないでしょ?」
「弦増やして何か意味あるの?」
「邪道!男らしくない!」
こんなことをよく言われたものです。
高音弦だけを増やしたり、ずっとギターの物真似をやってるみたいなスタイルならともかく、普通な感じにベースを弾いていてもそんなことを言ってくるのだから困った話。
ローB弦を使うことにすら眉をひそめられたり、
「ベースは4弦だろ!」
こういう偏見がかなり強かった実感があります。
そんな難癖に耳など貸さず。
4弦歴の方が短い自分。
そもそもなぜ多弦を弾き始めたか?
『多弦じゃないとコピーできなかったから』
こういう実に単純な理由。
15~16歳の頃ですね。ドリームシアターの『アウェイク』というアルバムに挑んだ際のこと。譜面通りに弾いているのに全然合ってないように感じて困惑。ローB弦をメインにしたリフを4弦で弾いても当然、それらしさがまったく出ない。
ヘヴィなサウンドが欲しいのにオクターブ上で弾かなければならない辛さ。どうにも格好悪くても嫌になりました。その当時、一緒にコピーしてた仲間が7弦ギター(スティーブヴァイモデル)を買ったものだから、なおさらこっちの違和感が酷くてがっかりするわけです。
また、その頃に同じく大好きだったのが、
【ブルー・マーダー】
ジョン・サイクスがリーダーのハードロックバンド。ベースのマルコ・メンドーサが使用しているのは6弦ベースでしかもフレットレス。ま~、困るなんてもんじゃありませんでしたね。
攻略不能!
ネットなんかもまだまだ普及していない頃の話。調べようにもそもそもの情報量が少ない。どこのベースを使っているのかすらもまったく分かりません。一体どうやって弾いているのか検討も付きませんでした。
「え!6弦!?」
「フレットレス!?」
「なにそのベース!?」
まずそこから驚くのが現実でした。
そんなこんなまぁ、「俺は多弦ベースに対する偏見なんて無いぜ!」とかそんな格好いいものではなく、
『そもそもないと困る』
それが必須だったのが現実。存在するのが当たり前だったのが自分の感覚。多弦ベースを当たり前のように使っている音楽を自然と聴いていた為、それを弾かないいとどうにもならない壁があったわけです。
これは本当、「4弦で何とかする!」なんて頑張ればいいって話ではありません。キーを変えたりアレンジして弾けばとかそういうことではない。それというのはロックのリフや開放弦の快感を知らない人の言葉と感覚ではないかと。
またはドリームシアターみたいなバンドを聴いたことがないか、その難易度を知らないか。姿勢が軟弱、気合が足りないって問題では済まない厳しい現実。達人ならともかく、中学・高校生の小僧じゃどうにもなりませんでした。20年前でもそんな状況だったわけですから、今のご時世、多弦を普通に使用している音楽なんていくらでもあるでしょう。
にもかかわらず、
「4弦しか認めない!」
こんな主張するのは、やっぱり古いだろうと言いたくなるところ。
そこに加えさらに、
「フェンダーが絶対!」
こんな固定観念まで入ってきてはこれまた鬱陶しくて仕方ない。
音楽は自由だのなんだの言う割に、意外と保守的だったり頭がコチコチという、そんな人も多い印象もあるこの世の中。ま~正直、うんざりしますよね。
「もう聴いてるものが違うんだよ」
「時代も環境も全然違うんだよ」
「新しい良いものだって増えてるんだよ」
こうツッコミたくなります。
4弦歴の方が圧倒的に短い自分。5弦ベース、6弦ベースが感覚的には標準です。 極端な話、4弦ベースになるともう、
『少弦ベース』
こんな違和感すらあるぐらいかもしれません。
4弦に魅力を感じることがあるのも確かであり、欲しくなることもあります。ただ、それというのは「本数を元に戻す」という感覚ではなく、
『弦を減らす』
この感覚の方が強いですね。
多弦ベースを弾いている方が自分の中では自然。それが使われている音楽を聴くことも当たり前。そこに疑問を持たれてもどうにもなりません。
多弦ベースの魅力は音域を広げる事だけではない
多弦ベースと言うと複雑とか、音域が凄く広がるようなイメージがあるんじゃないかと想像するところ。実際、20フレットの4弦と24フレットの6弦ベースなどと比較してみると感覚が大きく異なります。大袈裟ではなく、まったくの別物みたいに認識してもおかしくはない。
しかし実際のところは最低音・最高音の拡張にしても、1オクターブにすら満たない場合がほとんどではないでしょうか。特に低音部に関してはローBまでがスタンダード。「ローE」なんて言葉を聞くことはほとんどありません。
7弦で30フレット、超多弦とかそういう話でもない限り、高音域に関してもそこまでの拡張になるものではない。拡張分を全部合計して考えるならともかく、そのイメージや楽器本体の大型化とは裏腹に、音域的にはそこまで多大な変化が起きてるわけでもないのが現実じゃないかと。
ローBの5弦とかピアノの鍵盤的に見ると、
「こんだけ!?」
ってなるかもしれません。
思うに弦が増えることによって変化・増加するのは、
『使える音色』
『ニュアンス』
『バリエーション』
これなんじゃないかと自分は感じます。
音域的な話の流れで言うならば、
「たかがそれだけで?」
なんてことにもなりそうな前項。
一方、ベースの音楽におけるそのポジションを考えれば、たった一音だけでも全体に大きな影響を与えることは可能。極太弦による存在感は凄まじく、問答無用の支配力がある。他にも地味な実用性で言えば、たとえばキーがE♭とかだった場合、その存在や利便性を強く実感できたりもするでしょう。3弦が最低音域になってしまうのはちと寂しい。
ぶっとい弦で
「ドーン!」
重く深く鳴らすとものすごく締まります。
開放弦を使用したフレーズの選択肢が増えるだけでも話は全然違ってきますよね。実際、ローBを使用したヘヴィなサウンドに惹かれる人も大勢いることでしょう。自分もその未知のサウンドと重さに痺れた口。 特にメタルにおける影響力は尋常ではありません。
低音弦が増えることでオクターブのフレーズを弾くにも大きな影響があるのも面白く、それだけでもプレイにバンドサウンドにかなりの変化があります。他の弦とのコンビネーション、そのバリエーションが増加するのも多弦の魅力だと考える次第。
これは4弦をDにドロップしたりする方法とはまたちょっと感覚の異なる話。個人的な好みで言うならば、Eの開放は絶対にあって欲しい。チューニングを変化させたままではその条件に合わなくなってしまうのが痛い。自分がやるとするならば、D-Tunerのようなアイテムが必須になりそうです。
低音弦が一本追加されるだけでも結構な違いを感じる多弦ベース。加えて高音弦に関して言うならば、
「ベースの音は太くなければならない!」
「縁の下の力持ちである事が理想!」
みたいな感じの固定観念やその立ち位置から解放されるような感覚を覚えます。たとえ同じ音程だとしても、低い方の弦から出る音とハイC以上の弦によるサウンドとでは、これもまたまったく別物感がありますね。良くも悪くも考えることができますが、用途的にもかなりの違いを感じます。
ベースサウンドとしてボトムをキープするには厳しいのも事実。しかし、ギターを弾くのとは明らかに何かが異なるのが面白い。その使いこなしが分かってくれば、曲の中で独特の存在感やアクセントを生むことが可能になります。「重力に魂を引かれる」なんて話じゃありませんが、あまりにも強力なベースへの固定観念やイメージの強制から解放される、そんな快感が非常に魅力的。
複雑なボイシングまでを求めることはさすがに厳しくとも、和音が凄く弾きやすくなるのは確か。開放弦とも合わせてフレーズのバリエーションは豊かになります。無理にテクニカルなことをしようとせずとも、そういったサウンドやアイデアに触れるだけで視野が広くなる可能性も十分に考えられるでしょう。
「ギター弾けば?」なんてツッコミは野暮も野暮、無粋も無粋。
「ベースしか弾けねぇしベースが好きなんだよ!」
自分はこれ。
多弦に魅力を感じる理由、音域の拡張はもちろん、それだけではなく新たな発想や自由を手に入れることができる感覚が素晴らしいんですよね。
わけあって今は5弦ベースを弾いていますが、本当は6弦が欲しい、6弦を弾きたい、そんな思いが年々高まっていたりもします。ずっと6弦ベースがメインの人間だったので、思い描いてる理想の楽器をいつか手に入れたい。4弦も良いですが、やっぱり自分は多弦ベースが好きですね。
また、身体的もことを考えるのであれば、6弦までが限界というのも現実かなと感じています。一応、7弦ベースまでは弾ける実感があるけれど、メインには絶対ならなそうです。超多弦になると使えるポジションが減ったり、音色も限定される気がする為、実はまったく自由になれてないんじゃと疑問になるところ。
低音弦のハイポジションだって普通に使いたいわけですが、それを身体的に制限されるとか実現困難になるとか、そうなるとかえってやることもできることも制限されてしまう印象。そう考えるとやはり、多弦の魅力というのは単純に音域を広げることだけではないんじゃないかと強く思う次第。
今後また書いていくことになるかもしれませんが、ドリームシアターのジョン・マイアングなど、このあたりの使いこなしが素晴らしい。音域的に届く4弦があったとしてもそれだけで真似することは困難。ただ音域を拡張したということだけではなく、6弦ベースならではの強みと魅力を活かしたフレーズを沢山聴かせてくれます。
曲に対する強力な印象づけにも成功しているのがお見事!
正直、超多弦ベースには惹かれない
自分は完全に多弦派の人間。前述した通り、17歳の時、4弦から6弦ベースに移行しました。不思議なぐらい5弦には興味がなかった為、いきなり6弦に飛ぶことに。そもそも6弦でないとコピーができない曲があったので、5弦を弾くことは本当に全く頭になかったなと。
ただやっぱり、とてもすんなりとは行きませんでしたね。今でこそ4弦の方に違和感を抱くような身になりはしたけれど、最初はやっぱり大苦戦。多くの人がそうだと思いますが、自分も多弦ベースに慣れるのには時間がかかりました。まぁほんと、折れずに長く多弦に触れてきた甲斐あってと言うべきか、6弦でも抵抗なく弾くことが可能です。
感覚的には7弦ベースまでなら問題なく弾けると考えていますし、結局のところ、慣れの問題でもあるんでしょうね。好きなら自然と弾けるようになるはず。自分も多弦が好きだからこそ、自然な楽器として弾ける自信があります。
ただ、7弦までならOKな感覚がある一方、それを超えると急に興味がなくってしまうのが正直なところ。そこから上はさすがに厳しい、現実的ではない、そう感じます。
何より音楽的な必然が薄く思えてしまうのが痛い、身体的にも窮屈になり、かえって自由を失ってしまう印象が強い。結局は人間である以上、どうやっても身体的な問題からは逃れないということなんでしょうね。
自分としては超多弦ベースに対して、
『人類向きではない』
こう感じるところ。
極論なようですが、弾いてて辛い印象の方が強い。
タッピングがメインになってしまったりするのも好きではありません。価値観が古いとか狭いとか言われるのも否定できないけど、ベースはやっぱりドーン!と鳴らしたい。無理に「ベース!」って枠に入れようとするよりはチャップマンスティックみたいな形状だったり、まったく別の楽器にして仕上げた方が良いんじゃないかと思います。
9弦とか11弦をバリバリ弾きまくれる人を実際に目の前で観たりもしましたが、たとえ同じ低い音域であったとしても、楽器としての響きがベース的にかなり厳しくなってくる印象。
やっぱりもう、
「完全に違う楽器」
こういう気がしてしまうなと。
その人の実力であれば超多弦だろうと何でもこなすのだろうと想像もする一方、苦しい点も多いだろうと考えます。このスタイルがスタンダードになることはまず無いだろうと感じもした次第。
「それは新しい物に対する偏見だ!」と言われればそれもそうなんですが、現実問題、超多弦に関してはそれでは済まされない面が多々あると感じます。前述の通り、身体的に厳しい現実が存在することは否定できないはず。
・楽器の構造として苦しい
・響きとして無理がある
・見た目にも不自然
・悪い方向に異質
こんな印象が強いですね。
繰り返しますが、我々が人間である以上、身体的な制限が少ないことのメリットは計り知れないと考えます。4弦は弦の本数や音域こそ狭くなれど、全てのポジションが美味しく使えたり、単純に楽になる面が多い。超多弦の低音弦、それもハイポジションをどうやったら無理なく美味しく使えるのか?自分にはちょっとイメージできないかなと。
「無理がない」という意味では、楽器の設計についても同じことが言えそうです。
4弦、ベース、楽器が持っている
『機能美』
シンプルにこれを感じることは非常に重要。
正直に言って、超多弦ベースはあまり美しく感じない。道具として何かが破綻している、そんな印象を受けるものが非常に多い。面白くはあるけど、自分が弾くには拒否感の方が勝ってしまいます。
これまた偏見ありありに言うのであれば、
「弦の本数自体に意義を見い出してしまう」
超多弦の根本的な問題点がこれなんじゃないかと考えます。
「音楽的に」と言うよりは、楽器の存在自体が意義や価値になってしまっている、何か変なことをやって目立ちたいという、あまり良くない性質を感じるところ。もっと言えば、楽器が人間に勝ってしまっているようにも思えるわけですね。多弦であること自体が自慢であったり主張なのであれば、それはやはり色々疑問になるかなと。
6弦ぐらいなら普通に見かけるようにもなってきた世の中である一方、10弦ベースとかそういうのがスタンダードな存在になることはやっぱり無いかなと想像します。
脳の認識的にもそうなのかもしれませんが、
・大変そう
・複雑そう
・面倒そう
こういう単純な印象で拒否したくなってしまう面がありますし、このあたりについては前述の機能美の話とも繋がりそうですよね。
奇異に見えることはあっても、
「これ弾きたい!」
「良い音しそう!」
「絶対良い楽器だ!」
こうはならないかなと。
道具として優れているのではなく、物珍しさだけが武器になってしまっているようだと、楽器として非常に厳しいと言わざるを得ないかもしれません。少なくともバリバリに弾きこなすのは自分には無理。様々な問題点と向き合うこともできないと判断しています。
本当に超多弦を愛してる人がこれを読んでいたら非常に申し訳ないのですが、自分が受けてきた6弦への偏見を無視したのと同様、それを跳ね返すエネルギーと想像性で戦う事は否定もしませんし、むしろ応援したいぐらいかもしれません。
超多弦道は半端な道じゃない!
PS4、最新機器を手に入れ多弦ベースに思う事
PS4を購入!と言ってもまだソフトは何も持っていません。某ポイントがけっこう溜まっていて失効させるのも勿体なかった為、試しに入手してみた次第。PS3ですら大してやってないぐらいな身なので、これからさらにその進化具合に驚くのだろうなと感じます。
しかしまぁ、こうまで進んだゲームの世界を見るとなんと言いますか、付いていけない人が出てきても不思議ではないと感じるのが正直な話。もはやゲーム機の範疇を軽く超えていますし、実際、アニメとかが公式配信で無料で見放題できるなんてことも知って驚愕。
今のネットの世界を考えてみれば、
「そんなの当たり前だろ」
ってな話かもしれません。しかしまぁ、実際問題、「ゲーム機はゲームだけをするもの!」みたいな固定観念があるのが自分の頭なわけです。
「すげぇ時代だなぁ・・」
やっぱりこう、圧倒されちゃいますね。
最新機器でもなんでも、それがどんどん当たり前になっていくのが世の中。スマホを使いこなすのが当然、もはや普通の感覚。情報だってネットにいくらでもあり、簡単に手にも入る時代です。それに対して変なケチをつけても意味がないと思うところ。
だってそりゃ、
『あるのが当たり前』
こういう感覚になるわけですからね。
それ使うだろう。楽しむだろう。
子供なんて余計にそうだろうと。
自分も古い人間ですから、
「携帯電話なんかいらない!」
「ファミコンこそ至高!」
「今は中身がない!」
なんて思い出に浸るのも分かる話ではあります。レトロなものに心地よさを感じるのも理解できる。でもやっぱり、そういう主張を続けるのって苦しいし退屈ですよね。さすがにちょっとズレてるんじゃないかと感じずにはいられません。
「シンプルが良い」
「原点だからこそ良い」
これは本当に大切なこと、それがあって今があるのも確か。しかし、いつまでもそこにしがみついていたり、しかもそれを押しつけようとするのは、単純にうざくてつまらない行為だと感じます。残念ながら、年寄りのエゴや懐古主義と言うものでしょう。進化を感じる=そりゃ認識が古いからだろってのが現実なんでしょう。
そんな懐古主義への疑問などについて考えていたら、長々語ってきた多弦ベースに対する話と何やら共通したものを感じてしまったかもしれません。
自分が楽器を始めたぐらいの頃からすでに多弦ベースは存在していました。7弦ギターや6弦ベースを使っている音楽もありました。フレットレスを駆使するプレイヤーも沢山いました。3フィンガーやスラップ、タッピングなどのテクニックを映像で確認もできました。
多弦ベースがあるのが当たり前の時代、20年ぐらい前でもすでにそんな状況だったわけですから、さらに以前の40年も50年も前のものや価値観を押しつけられても、正直、ちょっと困っちゃいますよね。
もちろん、素晴らしいものも沢山あります。否定のしようがない素晴らしい作品も沢山ある。その時代ですでに完成、超越していた人物は存在しています。自分もそれが好きだったり、後からその価値に気付いたり、感動したり反省したり、本当に奥深いものだと感じるところ。
それでもやっぱり、
『感覚が違って当然』
これも確かなことでしょう。
本当に好きでそこにこだわる、それを求めるならともかく、操作が全然分からないとかとても付いていけないとか、衰えや停滞を正当化するのはどうなのかと。つまらない先入観などで否定、実は興味があるのに意地張って拒絶など、あまり格好良いことでも誇れることでもないはず。ましてや、ろくに試しもせず否定するのは論外というもの。
「老害」
あんまりしつこくうざいようだと、こう言われかねません。
でまぁ、嫌い嫌いだと言ってても、いざやってみりゃ案外楽しいもの。PS4でも多弦ベースでも実際やって慣れるが勝ち。慣れさえしちゃえばば遊べちゃうもんだと思います。
友人の家に遊びに行った際、【 L4D 】というゲームをやることになったのですが、正直な話、最初はぜんぜんノリ気じゃなかったんですよね。「俺、FPSとかこういうゲーム苦手なんだよなぁ・・」という具合に完全な苦手意識がありました。
しかしま~、そんなことを思ってたのも最初だけ。気付けば夜通しどころか昼までぶっ続けでやってるなんてことも普通。そのあまりの面白さにハマりまくってしまうという。
・違和感があるなんて最初の内だけ
・一度慣れてしまえば問題なく楽しめる
・やってれば複雑な操作も自然と覚えてしまう
人間って意外とそんなものですよね。
あのリチャード・ボナとかも最初は多弦に否定的だったそうですが、試しに5弦を弾いてみたら超お気に入りになり、そのままメインにもしてしまったとかなんとか。
古いにしても新しいにしても、どちらにも言えるのかもしれませんが、安易に否定したってどうにもならないし、そもそも面白くもなんともありません。ジェームス・ジェマーソンも好きだし、ジョン・マイアングも好き。ファミコンもやりまくったし、PS4もこれからやりまくるでしょう。
いろいろ楽しめるそんな人間で良かったと思う次第。基本的に遊ぶのが好きってことでしょうね。肝心なのはやっぱり『楽しむ』って事。新旧どうのって話や決め付け、価値観は割とどうでもいい問題。
遊んだもん勝ち、やったもん勝ちですね。
4弦ベース=旧式ではない。いくら変化進化しようと楽器を弾くのは人間
この話の流れだと、
「4弦=旧式」
「多弦ベース=最新式」
こういう事にもなってしまいそうかもしれません。それはしかし、あまりに安易な判断か極論でしょう。
自分が考えるに、4弦の方が身体的な面で有利な印象が強い。動作に制約が少なくなることが非常に大きなポイントだと感じます。4弦を使ってる時点で技巧的に劣るとか、そんなことも有り得ない。 超人的なプレイを期待するにしても、4弦がメインである方がむしろ有利な点も多い。
ステージパフォーマンス的にも、多弦での自由度と4弦での自由度とでは、身体的な条件が確実に異なるでしょう。その意味で4弦を愛用している人も絶対に多いはず。実際、ウィルリーなどはこの辺りについてかなりこだわりがある事をインタビューで語っています。我々は4弦の世代だ、ライブでは歌って踊って暴れたいのだと。その実現の為、シンプルなメリットは計り知れません。
今の時代、6弦をバリバリに弾きまくるなんてだけではなく、さらに動き回れるなんて人がいてもおかしくはありません。と言うか、実際にこの目で見たことがありますし、楽器の大型化から発生する制約など問題にしない人がいるのも確か。それでもやっぱり、見ていてスマートかと言うとちょっと違うんですよね。シンプルがゆえに自由度が高いメリットは絶対に無視できない話です。
「見た目が良い!」
「スマート!」
「単純に格好良い!」
こんな単純な理由でも十分すぎるこだわりというもの。見栄えが良い、ただそれだけでも大きな意味があるし、
「4弦の方が気軽!」
「自由に暴れられる!」
「自然に弾ける!」
こうなるともう好みは勿論、立派な目的としても成立してます。
たとえばの話、ラリー・グラハムやルイス・ジョンソン、ブーツィー・コリンズなど、この人達が6弦ベースを持って大人しく弾いているというのは想像ができません。
そんな姿を見たら、
「そうじゃねぇだろ!」
って絶対ツッコミたくなりますし、ガッカリもしそうです。
ビリー・シーンなどにしても4弦だからこそのドライブ感や勢い、迫力があるのだろうと認識。あれでちまちまと6弦を弾いてたりしたら、さぞかし格好良さが薄くなるだろうと想像。
勿論、レジェンド級のミュージシャンであれば、何を使っても素晴らしいプレイを披露してくれるでしょう。それこそビリーなどはダブルネックを使うこともあったり、楽器どうこうで揺らぐような人達とは思えません。
でもやっぱり、
「それがメインになるのは違うよなぁ・・」
となるはず。
で、逆に、多弦じゃないと全然しっくりこないパターンもあるから面白い。4弦じゃ雰囲気が出ないという、そんなこともあるから不思議です。
これは自分の話ですが、珍しく4弦を持っていったら、
「なんだそれ!?」
「似合わねぇ~!」
「4弦とか弾くの?」
仲間にこう言われたことがあったりします。
『堂に入る』
こういう言葉がありますが、結局、どこまでそれを自然に扱えるか、感覚が行き渡っているか、それが大切なことなのかもしれません。
弦の本数に合った動きや雰囲気が存在する、そういう意味では、
「多弦は嫌い!」
「弾きたくない!」
「絶対好きになれない!」
こう言うのも確かに分かる話。
感覚的にまったく受け付けない、自然なものとして認識できないのであれば、それは仕方のないことでしょう。どうやっても無理なものはそりゃ無理。自分の良いところを潰してしまったり活かせなくなるのでは意味がない。そういう直感は重要だし、大切にもしたい。
選択肢もスタイルも無数に存在するような世の中だからこそ、4弦がなくなるなんてことは絶対に有り得ないでしょう。どこまで行ったってそれを扱うのは、
『人間』
これである以上、実は楽器の進化なんてたかが知れているものだとも考えます。
音楽は無限のように変化、発展していくもの。可能性なんていくらでも眠っているもの。しかし、それをつくるための道具自体については根本的なところで言えば、実はそこまでの変化はしないのだろうと想像。いくら現代的に改良したところで、それを使うのは人間です。野球のバットはバット、ゴルフのクラブはクラブ。それ自体や存在を否定したり古いと言ってもどうにもならない。
必要に応じて最適なものを選んだり開発、それを使いこなせばよい。弦を増やすかどうかなんてのはある意味、安易で原始的な発想もいいところなんだとも思います。結局、コチコチの頭のままでいたり、視野があまりに狭いのが問題なんでしょうね。
「4弦だからシンプルに」
「6弦だからテクニカルに」
こんな風にイメージも用途も限定しようとすることに意味はない。自分がやりたいことに合わせて道具を選べばいいだけの話。必要なサウンドを自由に好きに手に入れればいいだけのこと。
そういう意味ではあまり難しく考えず、やはり直感を信じてみるのも正解ですよね。スペック云々ではなく、自分が欲しいものを確実に選択できるのも大切なこと。それを他人に任せるのも否定するのも馬鹿馬鹿しいだけ。
4弦が良いか、多弦が良いか、それは誰かが決める事じゃない、自分自身の意志と目的を持ち、弾きたい楽器を堂々弾けば良い。見た目が好きだ、弾き心地が好きだ、この楽器が好きだ、その好きを徹底して追及していけば、それが道になる。
『ベースが好き』
自分はこれで十分ですね。
弾きたいもの弾きます。
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